『預言CAFE 神の言葉が聞ける場所』の一部を公開中です。


「予言」との違い

「私たちの未来を予測することができたら、どんなにいいだろう」と、誰しもが思うことでしょう。そんな願いに応えてくれそうなものが予言かもしれません。
しかし、これからの未来に、いつ、何が起こるかは人間に知らされていないよう定められていることが聖書に書かれています。
「イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。(中略)そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。(中略)ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マルコの福音書14章4節から32節)」

私たち人間は勝手なことを言うことができます。あたかも霊的な力があるかのように、「だって、わかるから」といって、ある人々は人間に許されていない、不可能な領域に立ち入れる権威者のように振る舞っています。しかし、それは神に立ち向かう行動です。
預言は未来の予測ではなく、神からの愛のメッセージです。その根本は、私たち一人一人を造り、 愛していて、助け励ましたい、ということです。
本来の造られた目的と計画に立って、生き生きと、与えられた人生を過ごすことを神は願い、語りかけたいのです。
予言は「人生のカンニング」をしようとするような誘惑をもっていますが、預言は人生のレースに挑むための励ましと勇気を与えてくれるものです。

「占い」との違い

占いが当たると信じてしまいますし、毎日やこれからの人生の選択の材料になることでしょう。どっちをとってもいいような場合など、軽い気持ちで占いに助けられ、それが益になったりすると、その言葉に感謝してしまいます。しかし、始まりは良くても、その力は次第に心を締めつけるようになります。
「占いの霊」の語源は「ニシキヘビ」です。(ティンデル聖書注解 使徒の働きP322)ニシキヘビは毒で獲物を殺したりはしません。はじめは巻き付いて取り囲み、徐々に締めつけて最後には窒息死させてしまいます。占いを信じるある程度の部分では、何の害も感じられず、かえって守ってくれるように思えるのですが、実は、私たちの思いを拘束していきます。時間が経つと、自由が無くなって、占いの霊の奴隷となってしまうのです。何かを決めるのに占いがないと不安になって、自分の選択が働かなくなるのです。預言と占いが似ていると思う人もいるのですが、その源はまったく違います。神の霊か、ニシキヘビの霊か、ということです。これを専門にしている各種の占い師でもこのことを知らず、その霊に閉めつけられています。